侵入生物の潜在的な分布拡大速度を予測する |
拡散速度の予測のむずかしさ
最近では,鳥インフルエンザなどの新たな病気が日本に持ち込まれて拡散する危険性が危惧されている。この場合,病気の潜在的な拡散速度を事前に計算しておけば,どの程度の緊急性を持って病気の「封じ込め」をおこなうべきかが予測できる。しかし,侵入生物の拡散のようなマクロレベルの拡散は,通常の「ブラウン運動」や「拡散方程式」では十分には記述することができないことが知られている。この問題を解決するためにさまざまなモデルが作成されてきた。
ガンマモデルとアインシュタインのブラウン運動モデル
経済学分野ではブラウン運動の式を最初に導いたのはバシェリエ(1900)だといわれている。一方,物理学分野で最初にブラウン運動を導いたのはアインシュタイン(1905)である。これはアインシュタインの「軌跡の年」の三つの業績のうちの一つである。アイシュタインの導出の仕方はバシェリエよりも包括的であった。バシェリエはランダムウォークの際の一歩の長さが一定であると暗に仮定していた。これに対して,アインシュタインは「一歩の長さが空間的にランダムに変動する」ことを考慮した。しかし,アインシュタインは「一歩の長さが時間的にランダムに変動する」ことは考慮しなかった。一方,Yamamura (2004) のガンマモデルでは「一歩の長さが時間的にランダムに変動する」ことを考慮したが「一歩の長さが空間的にランダムに変動する」ことは考慮しなかった。アインシュタインとはちょうど逆である。そこで,アインシュタインの導き方とガンマモデルの導き方を統合して「一歩の長さが時間的にかつ空間的にランダムに変動する」と仮定すると,これはやはりガンマモデルとなる。
ガンマモデルでは,時間 0 に原点 (0, 0) からスタートした生物を考えると,その生物が一定時間後に座標 (x ,y ) に存在する確率は近似的に次式で与えられる。
この式をブタクサハムシの拡散実験に適用したところ,以下のような曲線が得られている。 ブラウン運動(正規分布)はあまり当てはまらないのに対して,ガンマモデルはかなりよく当てはまってるように見える。
潜在的な分布拡大速度
ガンマモデルにおいては,分布を拡大している生物の1世代あたり「潜在的な」分布拡大速度(c)は次式で近似的に表すことができる。
ここに R 0 は生物の産子数であり,λ はガンマモデルのパラメーターである。 ブタクサハムシの場合には, R 0 = 323.7 であり,λ = exp(-19.1) である。これを代入すると,1世代あたりの潜在的な分布拡大速度は 82.2 km と予測される。茨城県あたりではブタクサハムシは1年に4世代を経過する。したがって,1年あたりの拡散速度を計算する際には,R 0 の代わりに R 0 の4乗を代入すればよい。すると1年あたりの潜在的な拡大速度は 328.6 km と予測される。
実際の分布拡大速度
野外では死亡圧がかかるために,野外での実際の分布拡大速度は潜在的な分布拡大速度よりもかなり小さいはずである。ブタクサハムシは1996年に千葉県で発見されたのち,数年のあいだに多くの県に広がっていった。この発見県数の変化は守屋ら(2002)によってまとめられている。ブタクサハムシの分布が港を中心とする半円で近似することができると仮定し,発見県数の変化から累積拡大距離を求めると図2のようになる。
この図によれば,実際の分布拡大速度は1年あたり77kmであり,予測される潜在的な速度 (328.6km) よりもかなり遅い。一般に,潜在的速度と実現速度の比率から「野外で卵が成虫まで生存する率」を推定することができる。今のデータから推定すると野外での生存率は1%程度である。 もし仮に,ブタクサハムシが好適な環境に侵入して分布を拡大した場合には,つまりブタクサが一面に生育しているような環境で分布を拡大した場合には,その生存率が高いために,実際の分布拡大速度はもっと大きくなるはずである。上の式で計算した潜在的速度は,その拡大速度の上限値が4世代あたりで 328.6km であることを意味している。
引用文献
Bachelier L (1900) Theorie de la speculation. Annales Scientifiques de l'Ecole Normale Superieure Ser (III) 17:21--86 [PDF 7,979KB]
Einstein A (1905) On the movement of small particles suspended in a stationary liquid demanded by the molecular-kinetic theory of heat (English translation, 1956). In: Furth R (ed) Investigations on the theory of the Brownian movement. Dover, New York, pp 1--18
守屋成一, 田中幸一, 山村光司, 清水徹, 初宿成彦 (2002) ブタクサハムシの国内での分布域拡大状況と天敵相. 関東東山病害虫研究会報 49:131--132
Yamamura K (2004) Dispersal distance of corn pollen under fluctuating diffusion coefficient. Popul Ecol 46:87--101 [PDF (577KB)]